『0円の拳闘』告知 5月19日(日)22時頃~

『0円の拳闘』告知 5月19日(日)22時頃~
世界を沸騰させたモンスター井上尚弥の劇的KO勝利の余韻はまったく収まる気配がない。
5月19日が“ボクシングの日“だとご存じだろうか。

72年前、日本初の世界チャンピオンが誕生した日だからである。
1952年(昭和27年)5月19日。終戦の残滓(ざんし)ある水道橋の後楽園球場。
日本初のボクシング世界タイトルマッチは、東京ドームの前身、後楽園球場の特設リングで行われた。

世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノ(アメリカ)に挑んだ白井義男。
白井は、トレーナーのアメリカ人アルビン・カーンとリングに向かった。
王者マリノのトレーナーは、日系人のスタンレー伊藤だった。

スタジアムには3万人の観客が詰めかけたという。
72年前の世紀の一戦もテレビ放送はなく、ラジオの生中継だった。
聴取率は83%。そして歴史的な試合の模様はニュースフィルムに残された。

終戦後、復員しジムで汗を流す白井。たまたまジムに立ち寄ったカーン博士と出会ったことが始まりだった。
アルビン・カーン博士はシカゴ生まれで、GHQ天然資源局職員として来日、生物学の博士だった。白井の長い手足にボクサーとしての可能性を感じたのだ。

当時の日本のボクシングはラッシュ一辺倒で、文字通り“拳闘”だった。
カーン博士が考えるボクシングは「打たせずに打つスポーツ」。白井ならばそれを体現できると感じ、声をかけた。
しかし白井は、戦争で腰を痛めていた。カーン博士は庶民には手が届かないステーキなど栄養価の高い食事で白井の肉体改造に着手。
さらにアメリカの最新トレーニングを実践し、トップボクサーの映像を見せるなどして白井を育て上げた。
数年前まで銃口を向け合っていた戦争当事国の日本とアメリカが、ボクシングというスポーツを介して交錯した。

白井の時代1957年は、団体は1つで8階級(フライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビー)。世界チャンピオンは8人しかいなかった。
そして日本は、世界タイトルマッチの経験がなかった。コミッションもなく手探りでの開催を目指していた。
       (FNNプライムオンライン記事より抜粋)

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